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自立の家ができるまで


任意団体からNPO法人へ

自立の家が事業体として発足するまでの歩み(1974年〜1992年)

小田急線梅ヶ丘駅改善運動

「梅ヶ丘駅を誰もが利用できるようにする実行委員会(以下、梅実)」による小田急線梅ヶ丘駅の改善運動が始まった。きっかけは光明養護学校(現光明特別支援学校)に通う生徒が、駅の階段を利用しにくいと不満を露にしたことであった。そこで早速、同養護学校の卒業生を中心として「梅ヶ丘駅を誰もが利用できるようにする実行委員会(以下、梅実)」が発足されたのだった。ちなみにこの運動は、障がいのある者が主体的に責任ある立場を担ったという点で、世田谷地域においては画期的なものであった。

75年2月
「梅実」と小田急電鉄との本格的な交渉が始まった。しかし「障がい者はタクシーを利用すればいい」など、 交渉は難航し、小田急側は現場では駅改善の必要性を認めつつも一方的に交渉を打ち切った。それでも当 初の光明養護学校の卒業生だけでなく、教師や区の職員、支援者の学生が大勢集って、区議会請願等さま ざまな働きかけを行った。けれどここでもうまくはいかなかった。

76年の夏
駅改善運動だけに固執するだけでなく地域の仲間たちとふれあいながら新たな展望を見出そうとした。 何故ならそれまで「梅実」の中では障がいのある人の介助に対する問題という根本的なことに対して全く 考えていなかったからである。そこで担当者を各自決め、地域の障がいのある者に対し、在宅訪問を行な い、月に一度「在宅障害者の集い」を開催しはじめたのだった。さらに地域で介助者を集めながら重い障が いのある人が民間アパートを借り、自立生活運動を進めている「関西青い芝」とも交流をもつようになった。

77年1月
「梅実」は発展的に解消し「自立をめざす障害者集団ぐるーぷ・たびだち(以下、たびだち)」を結成した。地 域の障害者40名ほどが集まり、スローガンは「我ら皆マヒの身を持て誇らしく、自立の道をひたに歩まん」 というものだった。

「たびだち」の運動

77年4月
小田急線梅ヶ丘駅の上下ホームに車椅子用のスロープが開設された。これは「梅実」が区議会請願等を行ない、区議会議員が小田急側に働きかけたものであった。しかし実際できたスロープは単なる車椅子専用通路であった。また、区内で介助者に支えられながら自立生活を開始する重い障害者第一号としてO氏がアパート生活を始めた。
O氏の生活を支えるため、介助者が「介助者ぐるーぷ4.25」を結成し、これ以後同会が「たびだち」のメンバーの介助を支援することになった。また「たびだち」では「梅実」から引き継いだ「在宅障害者のつどい」と毎月の通信の発行や様々な行事を通して介助者集めを行っていった。

77年8月
「たびだち」主催で地域の障がい者、約30名による第一回サマーキャンプを開催した。障がいのある者が自ら介助を必要としながらも主体的に取り組むことを目的とした。そして「たびだち」としては将来的には障 がい者への生活支援の拠点にしたいと考えた。つまり、障がいがありながらも自立を考え、生活する障がい者を増やすということ、障がい者の生活支援を行う拠点を築くということである。そしてこのことが 「自立の家」づくりに結びついていった。

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現行介助制度の改善要求運動

79年6月
「たびだち」は現行介助制度の改善を中心課題として取り組むために発展解消し、「身体障害者介護人派遣 制度の改善を求める会(以下、求める会)を結成した。「求める会」は7人の障がいのあるメンバーの介助の 必要性を要望書としてまとめ、本格的に区との交渉を開始した。

81年1月
当時の「重度脳性マヒ者介護人派遣事業」と「ホームヘルプ事業」の改善を中心とした要求項目を整理し、区役所に座りこみハンストを行なった。何故なら当時は介助制度の水準は低く、ホームヘルプ事業ではホームヘルパーを1日2時間、週2回しか派遣してもらえず、重度脳性マヒ者介護人派遣事業は、月7回しか受けられなかったからだ。「求める会」は、その後も障がいのあるメンバーの結婚、子育ての介助をめぐり、現行介助制度の改善を求める活動を続けた。しかしなかなかうまくは行かず、会自体も、今後の組織の在り方について統一した見解がもてず、障がい当事者主体の組織をつくるのか否かということについても意見が分かれ、結局「求める会」は1983年に解散した。

障害のあるひとの生活支援を行う「拠点」づくりの活動

79年6月
「求める会」と共に「『自立の家』をつくる会(以下、自立の家)」が発足した。これは先にも述べたように障がいのある者がなるべく主体的に生活できるという「自立」を支援する「拠点」であろうとした。「自立の家」は定期的にバサーを開催する等地域の人々に障がいのある人の存在を認識してもらうところから活動を開始した。さらに、これも先に述べたように自立生活を開始する重い障がい者第一号の小佐野氏の住まいを実質的な「自立の家」として活用するようになった。様々な障がいをもつ者が小佐野氏と共同生活を行なうことになった。そこではいままで自分ひとりでは行なうことのなかった買い物や、介助者とともに生まれて初めての料理をするなど種々の経験ができるのだった。 また、小佐野氏のアドバイスを受けながら自らの介助集めのためのビラを作成し、介助者を確保して地域での自立生活に踏み切ることができた。しかし皆が皆成功したわけではない。なかには施設に入所した者や、精神病院に入院した者、自殺した者もいたのだった。「自立の家」への参加メンバーはもうかれこれ15年以上続けながらも「自立」の重要性と難しさを感じつつも「在宅ケア研究会」や「合同介助者あつめの会」に参加し、ますます「自立の家」の必要性を痛感しているのである。

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新たなる出発(1993年〜2002年)

1993年度新たな出発宣言 5/23結成総会

○ 自立生活プログラム2期12日開催/29名・宿泊生活体験15日/6名・会員数104名/介助スタッフ:43名

「自立の家」を確保する資金づくりのために、リサイクルの冷蔵庫を緊張とマヒのある体で必死に磨いていた日々。一緒に考えてほしくて、炎天下ビラを配り続けた日々。「世田谷共同BOX」を仮事務所として準備を進め、再出発宣言。5月23日は、50名足らずの船出だったが、出席者それぞれ万感の思いがあった。当時は民間団体の運営する宿泊生活体験所は、全国に数か所あるだけだった。そのようななか、本会の宿泊生活体験所の開設は、東京のマスコミだけではなく、全国に向けたニュースでも紹介されることになった。
第一号の利用者は佐賀県から24歳の女性。足は飛行機で。それを皮切りに多い人で50泊から70泊程度の体験を行ない、毎年数名の方が地域での生活を実現している。2003年4月現在、世田谷区内には、自立生活する障がいのある人が50名ほどいる。その半数の人が、本会の宿泊体験所などを通して、地域での生活を実現していったことになる。

1994年度 世田谷区広報TV番組に本会の取り組みが紹介される

○ 自立生活プログラム3期20日開催/50名・宿泊生活体験32日/8名・会員数200名/介助スタッフ:92名

障害のある人が、いくら自立の家でトレーニングを積んでも、不動産屋などでのアパート探しに立ちはだかる壁は厚い。そこで自立の家をつくる会では地域福祉を考える連続講演会を企画した。

○ 第一回「地域福祉とは何か?」

○ 第二回「ノーマライゼーションの流れと現在を問う」

○ 第三回「地域における通勤寮の役割」

この時の学習や議論がもととなり、今ある運動領域に繋がっている。

1995年度 二次障害報告集発刊/自立のゆめ基金箱設置開始

○ 自立生活プログラム3期8日開催/32名・宿泊生活体験24日/5名・会員数254名/介助スタッフ:134名

今では医療の世界でも一般化しつつある脳性マヒ者の二次障害は、当時あまり知られておらず、一部の整形外科医や脳性マヒ者が研究している状況だった。そして、本会の利用者の中にも二次障害に苦しむ人が増えてきていた。私たちはその事に危機感を感じ、『脳性マヒ者の二次障害に関する報告集』を発刊、それを契機に二次障害をはじめとする障がい者医療に関する連続講演を開催した。現在では、この流れを受け「障害者医療問題全国ネットワーク」が誕生し、障がい者医療問題解決に向けた全国的な取り組みが始まっている。

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自立のゆめ基金箱設置開始

結成当初より自立の家は、深刻な運営費不足に悩まされていた。その当時、北海道の「札幌いちご会」が書損じはがきを集め換金し、資金作りを成功させているという話題がメンバーの耳に入った。しかし、当時自立の家には力のある出版物が無く、検討を重ねた結果『自立のゆめ基金箱』を住んでいる地域に設置するに到った。
最初の設置は豪徳寺、入店拒否や冷たい対応をされることもあったが、中には「まっていたよ!」「ぜひうちにも置いてよ!」等の温かい言葉をもらえる事が増え「自分たちの活動で地域が確実に変わってきている。逆に地域に偏見を持っているのは自分たちなのでは?」と改めて気づかされた、そして勇気づけられた。

1996年度 介助派遣事業スタート

○ 自立生活プログラム3期20日開催/33名・宿泊生活体験68日/8名・会員数260名/介助スタッフ:144名

自立生活プログラムや宿泊生活体験の事業を開始して4 年目のこの年、本会もようやく介助派遣事業に乗り出すことになった。当時、障害者の介助はどうなっていたかというと、区に申請をしても実際に人が派遣されるホームヘルプサービスは、週2回、1回あたり2時間が関の山で、その他の介助制度も少ないながらあったが、どれも介助者を自分で探して区に登録するもので、介助者が見つからなければ、どうしようもない状態だった。
 一方で、本会は、自立生活プログラムや宿泊生活体験の事業を行っていたから、自立生活者が出れば、介助者が必要なわけで、先輩たちの介助者をのれん分けしながらなんとかしのいではいたが、自立生活者も徐々に増え、しまいには追いつかなくなってしまった。その結果、本会の利用者の介助を、介助派遣事業を先に開始していた「HANDS世田谷」に、補助してもらう場面も出てきた。自分の始末を自分でできない。これでは本末転倒と考え、介助派遣事業の開始となったわけである。太っ腹な「HANDS世田谷」さん、その節はお世話になりました。ありがとうございます。

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1997年度 東京都の助成金打切り

○ 自立生活プログラム2期14日開催/32名・宿泊生活体験143日/16名・会員数305名/介助スタッフ:131名

当時、本会事業の中で「介助派遣事業」「自立支援プログラム」の運営費の大部分は東京都の外郭団体、東京都地域福祉振興財団からの助成金で賄われていた。しかし、助成金の打ち切りという話題が出始め、当時都内では150あまりの福祉事業があり、行政の手の届かない部分を担うサービスを行っていたが、このままでは事業の縮小をせざるを得ないと、各団体でネットワークを組み情報交換や地域行政、議会に対する意見表明を行い事業の必要性と助成金の継続を訴えた。その後、うち切りの話題は完全に消えた訳ではないが、2002年度までの助成金の継続は勝ち取る事が出来た。

1998年度 中期計画「自立のゆめプラン」発進!

○自立生活プログラム3期14日開催/39名・宿泊生活体験179日/19名・会員数355名/介助スタッフ:204名

この年まで本会は単年度計画での取り組みであった。しかし、会員や利用者の増加、地域の新たなニーズなど、事業としての重要性が増してきている現状に、単年度計画でのスタイルでは組織の維持が難しくなってきた。そこで中期計画(5年計画)を作ることとなり、事業計画、組織の整備、人材の育成地域とのかかわりを中軸に、「グループホーム建設」「NPO法人格の取得」「自立のゆめ基金の拡大」という3つの大きな目標を含む21の計画を打ち出し、様々な人達の期待を盛り込んだ「自立のゆめプラン」を発進させることとなる。

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1999年度 旧組織の解散、NPO法人発足!

○ 自立生活プログラム9期12日開催/64名・宿泊生活体験101日/10名・会員数394名/介助スタッフ:186名

本会の中心的な取組を古い順に並べると、「宿泊生活体験」⇒「自立生活プログラム」⇒「介助派遣事業」となる。これも、時代の変化と共に本会が変化してきた結果である。「障害者ホームヘルプ」はそんな流れの中で、本会が大きく形を変えるものとなった。対象年齢は児童から65歳までと大幅に拡大し、障害の種類も、視覚、聴覚難病、知的、精神等と拡大。支援内容も、利用者本人が指示するケースだけでなく、掃除、洗濯、調理等の家事支援、ベッド上での体位交換や清拭、洗髪もある。福祉の世界では当たり前のことを現実に目の前に突きつけられ、まさに今、本会の目的が問われることとなった。

2001年度 ボランティア国際年、世田谷企画

○ 自立生活プログラム9期10日開催/64名・宿泊生活体験86日/16名・会員数438名/介助スタッフ:194名

11月17日、18日の両日、北沢タウンホールを中心に区内各所で21世紀のボランティア活動とさらなる広がりを誓う「ボランティア国際年」と、世田谷区内のボランティア活動や育成、振興の中核を担ってきた「特定非営利活動法人世田谷ボランティア協会の20周年」を記念して『ボランティアフォーラムせたがや発21』の各団体企画が開催。地域との交流を担う大事な行事として、重要なイベントとなった。

2002年度 支援費制度に振り回される日々

○ 自立生活プログラム8期9日開催/58名・宿泊生活体験131日/6名・会員数501名/介助スタッフ:153名

2003年4月1日から、障がいのある人の介護保険ともいわれる「支援費制度」が実施された。「支援費制度」は「(行政の)措置から(当事者の)契約へ」とか「障害者自身で選べるサービス」などと、あたかも今までの生 活が一変するようなイメージで積極的にキャンペーンが行われていた。しかし、専門家ですら「支援費制度に移行するとサービスの供給が追い付かない」「福祉サービスは民間企業と利用者間の契約にはなじまずトラブルが続出する」と警鐘を鳴らしていた。国が推し進める制度と現場との温度の差は広がる一方であり、国の利便性を最優先する方針に憤りを感じた制度であった。

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